ホンダ・S500
ホンダ・S500, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=48218 / CC BY SA 3.0
#ホンダの車種
#オープンカー
#スポーツカー
#日本の自動車技術180選
S500のインテリア S500(エスごひゃく)は、本田技研工業がかつて生産、販売していた小型スポーツカーである。
1961年(昭和36年)に、当時の通商産業省が自動車産業の新規参入を制限すべく、自動車業界の再編案を打ち出した。
本田技研工業の創業者である本田宗一郎は通商産業省の案に猛反対した。
本田宗一郎は通商産業省の自動車産業再編案が成立する前に、四輪車の開発を行うことを本田技研工業の開発陣に指示した。
1962年(昭和37年)10月の第9回全日本自動車ショー(今の東京モーターショー)(『絶版日本車カタログ』三推社・講談社、30頁参照)にS360とスポーツ500が展示され、2台とも“来春発売”と発表された。
しかし、S360は早期に断念され、スポーツ500がS500として1963年(昭和38年)10月に発売された。
発売価格は45万9,000円(1963年6月16日の新聞紙面で価格クイズとして市場調査され、応募数の最も多かった48万5,000円を3万円ほど下回って設定された)。
後のS600やS800に設定されたクーペはS500にはなかった。
生産・販売期間が極めて短いのは、後継車であるS600が1964年(昭和39年)1月に発売されたためである。
ただし実際のデリバリーはS500が1964年1月、S600が同年3月からのようである。
またそれ以前に顧客へ渡されている個体もあるようで、Old-timer誌(八重洲出版)No.90に、恐らく量産試作車であろうと断言できるS500が福島県で、これも恐らく量産試作車であろうT360とともに発見されたとの記事が発表された。
特筆すべきは正式なデリバリー以前の1963年(昭和38年)に登録されていたことが抹消登録証明書の存在によって証明されていることである。
総生産台数の正確な資料はないようだが、500台前後が国内登録されたようである。
パワー不足のため輸出はされなかったが、テストとカタログ撮影を兼ねて2台の左ハンドル仕様が米国に渡った。
そのテスト結果が、その後のS800の輸出時に生かされたと考えられる。
その内の1台はエンジンを600 cc用に換装されてメキシコに現存する。
これ以外に英国や米国に存在する個体は、全て日本国内仕様が持ち出された物である。
メカニズム 2輪車メーカーから出発したホンダらしく、随所にその特徴が見て取れる。
ファイナルドライブにはローラーチェーンが用いられ、アルミ・ダイカスト製のチェーンケースがトレーリング・アームを兼ねる独立式リヤ・サスペンションを採用した。
これは本田宗一郎のアイデアで、リジッドアクスルと比べ、後輪中心間を結ぶ位置にデフや車軸が無く、その空いたスペースにガソリンタンクを前進させて搭載でき、安全性とより大きなトランクスペースをもたらすことに成功した。
この方式は、後継のS800の途中まで継続された。
エンジンは水冷直4 DOHCで、531 ccの排気量から最大出力44 PS/8,000 rpmを搾り出していた。
デザイン デザインは英国のスポーツカーなどを参考に、社内で森泰助が担当、但し本田宗一郎が大幅に手直しをしたとされる。
また当時、国内には良質な幌がなく英国から輸入したとされる。
^ a b c d 【昭和クルマ列伝】ホンダS500のエンジンは「精密時計」 本田宗一郎の怒りが原動力産経WEST 2016年11月19
ホンダ・S500, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=48218 / CC BY SA 3.0
#ホンダの車種
#オープンカー
#スポーツカー
#日本の自動車技術180選
S500のインテリア S500(エスごひゃく)は、本田技研工業がかつて生産、販売していた小型スポーツカーである。
1961年(昭和36年)に、当時の通商産業省が自動車産業の新規参入を制限すべく、自動車業界の再編案を打ち出した。
本田技研工業の創業者である本田宗一郎は通商産業省の案に猛反対した。
本田宗一郎は通商産業省の自動車産業再編案が成立する前に、四輪車の開発を行うことを本田技研工業の開発陣に指示した。
1962年(昭和37年)10月の第9回全日本自動車ショー(今の東京モーターショー)(『絶版日本車カタログ』三推社・講談社、30頁参照)にS360とスポーツ500が展示され、2台とも“来春発売”と発表された。
しかし、S360は早期に断念され、スポーツ500がS500として1963年(昭和38年)10月に発売された。
発売価格は45万9,000円(1963年6月16日の新聞紙面で価格クイズとして市場調査され、応募数の最も多かった48万5,000円を3万円ほど下回って設定された)。
後のS600やS800に設定されたクーペはS500にはなかった。
生産・販売期間が極めて短いのは、後継車であるS600が1964年(昭和39年)1月に発売されたためである。
ただし実際のデリバリーはS500が1964年1月、S600が同年3月からのようである。
またそれ以前に顧客へ渡されている個体もあるようで、Old-timer誌(八重洲出版)No.90に、恐らく量産試作車であろうと断言できるS500が福島県で、これも恐らく量産試作車であろうT360とともに発見されたとの記事が発表された。
特筆すべきは正式なデリバリー以前の1963年(昭和38年)に登録されていたことが抹消登録証明書の存在によって証明されていることである。
総生産台数の正確な資料はないようだが、500台前後が国内登録されたようである。
パワー不足のため輸出はされなかったが、テストとカタログ撮影を兼ねて2台の左ハンドル仕様が米国に渡った。
そのテスト結果が、その後のS800の輸出時に生かされたと考えられる。
その内の1台はエンジンを600 cc用に換装されてメキシコに現存する。
これ以外に英国や米国に存在する個体は、全て日本国内仕様が持ち出された物である。
メカニズム 2輪車メーカーから出発したホンダらしく、随所にその特徴が見て取れる。
ファイナルドライブにはローラーチェーンが用いられ、アルミ・ダイカスト製のチェーンケースがトレーリング・アームを兼ねる独立式リヤ・サスペンションを採用した。
これは本田宗一郎のアイデアで、リジッドアクスルと比べ、後輪中心間を結ぶ位置にデフや車軸が無く、その空いたスペースにガソリンタンクを前進させて搭載でき、安全性とより大きなトランクスペースをもたらすことに成功した。
この方式は、後継のS800の途中まで継続された。
エンジンは水冷直4 DOHCで、531 ccの排気量から最大出力44 PS/8,000 rpmを搾り出していた。
デザイン デザインは英国のスポーツカーなどを参考に、社内で森泰助が担当、但し本田宗一郎が大幅に手直しをしたとされる。
また当時、国内には良質な幌がなく英国から輸入したとされる。
^ a b c d 【昭和クルマ列伝】ホンダS500のエンジンは「精密時計」 本田宗一郎の怒りが原動力産経WEST 2016年11月19日